amazonタイムセール

大久保清の墓はどこにある?過激なマスコミ報道と野次馬が招いた一族への憎悪

大久保清の墓
記事内に広告が含まれています。

大久保清事件の発覚当時、現場周辺や遺族の自宅に詰めかけるマスコミの数は半端なかったものの、当初は大久保清が黙秘と虚偽の自供を続けていたため、全容解明がなかなか進まなかった。

大久保清の墓

その間も 近隣住民がインタビュー攻めに遭ったり、勝手に記事にされてたり… ずーっと騒然としていて、周辺の第三者も心身ともにヘトヘトだったあの頃、

被害女性が大久保清の誘いに乗ったのはあまりにも尻軽すぎる!

…など、ガイシャと遺族への中傷報道が続いていた。

親族は身内を56された上に、赤の他人からの心ないバッシングがあとを絶たず、その心労は想像を絶するものだったという。

観光客の事件現場巡りとマスコミ報道の余波が墓を暴かせた

大久保清の墓

あの頃は群馬への観光客も増えて経済効果は上がったけれど、それは実は非常に胸糞悪いもので…

「大久保清の足跡をたどる」的な悪趣味な観光客が興味本位に事件現場巡りをしていたのだ。

今でいうところの「アニメの聖地巡礼」みたいなノリかな。

その手の観光客が激増し、あちこちで写真を撮ってはわあわあ騒がしいっつーか、不謹慎極まりない。

大久保清は県内で120人余の女性を誘ったり声をかけているが、そのうち25人は前橋市本町二丁目の群馬銀行本店前バス停留所で誘っている。 ここからまっすぐの道を500メートル歩くと、大久保が誘った女性に文学や絵の講義をした喫茶店「田園」(仮名・前橋市千代田町五丁目)がある。この道は前橋市の繁華街を横切り、通称××通りと言われているが、いつの間にか「大久保ストリート」と呼ばれ、最近は嫌な街角というわけか、通学・通勤の女性の通行がなくなった。 だが観光客にとっては絶好のプロムナード。 
via:毎日新聞(昭和46年)

「観光客にとっては絶好のプロムナード(=散歩道)」 …って、地元民との温度差がありすぎ。

大久保清の墓

男性報道記者が街ゆく女性に声をかけて成功率を競い合うナンパゲーム…なんて、地元民を小馬鹿にした悪ふざけな報道もあった。

マスコミが先頭に立って煽るとか今の時代なら炎上騒ぎになるけど、当時のメディアはウケ狙いで こんなこと平然とやっていた。

つまり群馬県の女性を馬鹿にしてたわけだ。ナメトルネ…

こういう風潮に対する大久保家の近隣住民の憤りもかなりのもので、大久保清の刑が執行されたニュースが流れるやいなや、一夜にして大久保家代々の墓が暴かれる事態に。

大久保清の墓

ここに大久保清の遺骨を納められた日にゃ、新たな観光スポットになりかねない!

事件を1日も早く風化させたい地元住民の思いが、彼らを凶行に走らせた。

大久保清への憎悪が、最終的には「大久保一族への憎悪」にすり替えられたのだ。

さまよう遺骨…「もう納める場所がないんです」

大久保清の墓

先祖代々の墓に入れなくなった大久保清の遺骨は、最初は両親の分とともに高崎市の観音山霊園にあったらしいのだが、情報が洩れて、大久保清事件現場ツアーの新たな観光名所になって悪目立ちでもして追い出されたのか?

私にはその事情はわからないが、教誨師によると、大久保清の姉が

実姉 清も、高齢の両親も、もう遺骨を納める場所がないのです。
…と言って渡邉普相氏を訪ねてきたそうだ。

見かねた渡邉氏は大久保清の遺骨を引き取ることになり、現在雑司ヶ谷霊園の一角にある東京拘置所の共同墓地に眠っているという。

この共同墓地に落ち着くまで、刑執行から約10年間、大久保清のお骨は行く当てもなく さまよい続けていたことになる。

大久保清獄中手記「訣別の章」のてんやわんや

大久保清は大島英三郎氏(群馬県伊勢崎市在住のアナーキスト)を特別弁護人として文通していた。

大島氏は皇居の一般参賀で発煙筒を投げつけた人物。大久保清はほとんどの弁護士を信頼しなかったのだが、この大島氏だけには心を開いていた(晩年はある事情から大島氏とも絶交状態)

そんな大島氏の編集で、大久保清は獄中手記「訣別の章」を出版し「俺は立派に4んでみせる」…と、4を待つ身になっても自己顕示をやめなかった。

大久保清はかねてから知人への手紙に「長野県の梓川に散骨してほしい」と書いていて、それになぞらえた詩が訣別の章にある

父母よ!
私の骨と灰は あなたがたに お願いしました
その梓川の清き流れに 私の全部を託して、長い旅に出ます
そして何日かかるかわからねど きっと ナホトカの港までゆくでしょう

最近は墓じまいが激増していたり、はじめからお墓を持たずに手元供養を選ぶ人が多いから海洋散骨に人気が高まっているが、昭和はお墓に納めるのが当たり前だった。

そんな時代に大久保清本人が本気で散骨を望んでいたのかはわからないが、遺族は後始末が最後の最後まで大変だったようだ。



大久保清の墓・遺骨に関するよくある質問(FAQ)

Q なぜ大久保家代々の墓が暴かれてしまったのですか?
A 事件後、興味本位の観光客による事件現場巡りやマスコミの過熱報道が続き、地元住民の憤りが高まっていました。大久保清の刑が執行されたニュースが流れるやいなや、遺骨を納められれば新たな観光スポットになりかねないという危機感から、事件の早期風化を願う住民の手によって一夜にして墓が暴かれる事態となりました。
Q 「大久保ストリート」とは何ですか?
A 大久保清が多くの女性に声をかけた前橋市の繁華街を横切る通りが、いつしか「大久保ストリート」と呼ばれるようになったものです。嫌な街角として通学・通勤の女性の通行がなくなる一方、興味本位の観光客にとっては格好の散歩道となっており、地元民との温度差が際立っていました。
Q 被害者や遺族はどのような扱いを受けたのですか?
A 近隣住民がインタビュー攻めに遭い、勝手に記事にされるなど周辺は騒然としていました。被害女性や遺族に対する心ない中傷報道も続き、身内を手にかけられた上に赤の他人からのバッシングが絶えなかった親族の心労は、想像を絶するものだったといわれています。
Q 大久保清の遺骨は最終的にどこに納められたのですか?
A 先祖代々の墓に入れなくなった遺骨は、当初両親の分とともに高崎市の観音山霊園にあったとされますが、その後行き場を失いました。見かねた教誨師の渡邉普相氏が引き取ることになり、現在は雑司ヶ谷霊園の一角にある東京拘置所の共同墓地に眠っているといわれています。
Q 遺骨はどれくらいの間さまよっていたのですか?
A 共同墓地に落ち着くまで、刑の執行から約10年間にわたり、大久保清の遺骨は行く当てもなくさまよい続けていたことになります。実姉が「清も高齢の両親も、もう遺骨を納める場所がない」と渡邉氏を訪ねてきたことが、引き取りのきっかけだったと伝えられています。
Q 大久保清の獄中手記「訣別の章」とは何ですか?
A 特別弁護人として文通していたアナーキストの大島英三郎氏の編集により出版された獄中手記です。大久保清は刑の執行を待つ身になっても自己顕示をやめず、かねてから望んでいた長野県・梓川への散骨になぞらえた詩などを収めています。
Q 大久保清は本当に散骨を望んでいたのですか?
A 知人への手紙や手記の中で長野県の梓川への散骨を希望する言葉を残していました。ただし、本人が本気で散骨を望んでいたのかは定かではありません。お墓に納めるのが当たり前だった昭和の時代背景もあり、遺族は最後の最後まで後始末に苦労したようです。